東京高等裁判所 昭和51年(ネ)1806号 判決 1978年1月25日
控訴人(原告)
ウオーレン・ジー・シミオール
被控訴人(被告)
立川バス株式会社
主文
本件控訴を棄却する。
控訴費用は控訴人の負担とする。
事実
控訴人代理人は「原判決を取消す。被控訴人は控訴人に対し金五七〇万七五一八円およびこれに対する昭和五〇年七月二五日から支払いずみまで年五分の割合による金員を支払え。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。」との判決ならびに仮執行の宣言を求め、被控訴人代理人は控訴棄却の判決を求めた。
当事者双方の主張は、次のとおり訂正するほか、原判決事実摘示のとおりであるから、ここにこれを引用する。
原判決書四枚目裏二行目を「被控訴人が加害車を所有し、これを自己のために運行の用に供していたものであることは認めるが、その余は争う。」と、同五枚目裏九行目より同六枚目表二行目までを「本訴請求の原因となつている控訴人の症状に基づく損害は前記和解当時控訴人の予想しなかつたものであるから、右和解の拘束力ないし権利不存在確認条項は本訴請求の損害にはおよばないかあるいは右和解の権利不存在確認条項は控訴人の予想しなかつた新損害が生じたときは失効する旨の解除条件付のものと解すべきである。もし仮に本訴請求の原因となつている控訴人の症状に基づく損害を右和解当時控訴人が予想していたとすれば、控訴人は錯誤によつて右和解を成立させたことになり、また信義則ないし衡平の原則からしても、本訴請求の損害は右和解の対象とならないというべきである。また仮に本訴請求の原因となつている控訴人の症状に基づく損害が右和解当時予想し得なかつたものであるか否かが問題となるとしても、大腿骨骨髄炎より化膿性関節炎を生ずることは専門家でない一般通常人には予想することができないところである。」と各訂正する。〔証拠関係略〕
理由
一1 次の事実は当事者間に争いがない。
(一) 控訴人が次の交通事故によつて傷害を受けた。
(1) 日時 昭和三九年一二月一〇日午後一〇時頃
(2) 場所 東京都立川市高松町二丁目二二一番地先路上
(3) 加害車 普通乗用自動車(多五あ一三五号)運転者訴外市川徳寿
(二) 被控訴人は加害車を所有し、これを自己のために運行の用に供していたものである。
2 原本の存在および成立に争いのない乙第一三号証、原審における控訴人本人尋問の結果によつていずれも真正に成立したと認められる甲第一ないし第三号証、第四号証、第五号証の一、二、第六号証の一ないし四ならびに右本人尋問の結果に当審における鑑定人高橋雅足の鑑定の結果を考えあわせれば、
(一) 控訴人は昭和三九年一二月一〇日本件事故によつて左大腿骨の複雑骨折等の傷害を受け、同日より昭和四〇年三月一五日まで在日米軍病院で手術等の治療を受けたが、その際左大腿骨に右骨折に起因する化膿性骨髄炎を生じ、抗生物質の投与等を受けたこと
(二) その後控訴人は右骨髄炎の再発をみて昭和四〇年一二月頃東京大学伝染病研究所付属病院で腐骨片の除去手術を受けた結果、控訴人の症状はよくなつたが、瘻は左腿に執拗に残り、不定期的に排膿が継続したこと、しかしその後同病院における排膿や洗浄等の治療により昭和四一年五月頃当時には控訴人の傷口はふさがり、排膿も一応とまり、レントゲン写真にも骨髄炎の像は認められず、また運動機能等について格別な障害もみられなかつたが、ただ控訴人の左の腰の部分に小さな穴があいていて、その穴はじめじめと湿つており、その原因は必ずしも明らかでなく、なお治療を継続する必要があつた(ただし控訴人は右治療を受けなかつた。)こと、
(三) 控訴人は昭和五〇年三月頃から左膝に疼痛を覚えるようになつたので、医師の診察を受け投薬を受けていたところ、同年五月一六日発熱とともに左大腿部に激痛を覚えるようになつたので、同月一七日井上外科病院に入院し、同月二一日東京慈恵会医科大学付属病院に転入院して同年六月五日まで同病院に入院し、同日さらに聖母病院に転入院して同年七月二三日まで同病院に入院したこと、控訴人の右症状は左大腿骨の慢性骨髄炎および左膝関節の化膿性関節炎であつて、右の左大腿骨の慢性骨髄炎は上記の左大腿骨化膿性骨髄炎が慢性骨髄炎に発展したものであり、また右の左膝関節の化膿性関節炎は右の慢性骨髄炎に起因し、その罹患骨に隣接する関節に化膿性炎症を発症させたものであること
がそれぞれ認められ、右認定を左右するに足りる証拠はない。
二 本件事故については控訴人が昭和四〇年一二月東京地方裁判所に被控訴人に対する損害賠償の訴えを提起し、右事件は同裁判所昭和四〇年(ワ)第一一一九六号損害賠償請求事件として係属したところ、証拠調が終了した段階で裁判所より和解の勧告があり、昭和四二年五月一日「被控訴人は控訴人に対し本件事故による損害賠償として八〇〇万円の支払義務あることを認め、控訴人はその余の請求を放棄し、本件事故につき本和解条項のほか何らの債権債務が存しないことを当事者相互に確認する。」旨の裁判上の和解が成立し、右和解は同日付の和解調書に記載され、被控訴人が右八〇〇万円の支払を了したことは当事者間に争いがなく、成立に争いのない乙第一六号証およびいずれも原本の存在ならびに成立に争いのない乙第一ないし第四号証によれば、右訴えにおいて控訴人は既往の治療費および交通費等二二四万〇六六〇円、骨髄炎治療のため将来二〇年間に要する費用一四一七万二五七二円、得べかりし収入の喪失による損害一〇六〇万円、慰藉料一〇〇〇万円合計三七〇一万三二三二円の賠償を求めた(昭和四一年一二月一五日付訴状訂正申立書により当初の請求を拡張した結果右のような請求となつた。)ものであり、これに対し被控訴人は本件事故は控訴人が酩酊して自動車の進行に注意せず電柱のかげから突然車道にとび出したために発生したものであつて、加害車運転者および運行供用者である被控訴人には何ら過失はなく、加害車に構造上の欠陥も機能上の障害もなかつた旨を主張して損害賠償責任自体を争うほか、損害の発生および損害額をもすべて争つたものであつたが、結局上記のごとき裁判上の和解が成立したものであることが認められる。
右によれば右裁判上の和解は右訴訟の訴訟物であつた損害賠償請求権を含め本件事故に基づく控訴人の被控訴人に対する損害賠償請求権のすべてに原則としておよぶものといわなければならない。
三 控訴人は「本訴請求の原因となつている控訴人の症状に基づく損害は右和解当時控訴人の予想しなかつたものであるから、右和解の拘束力ないし権利不存在確認条項は本訴請求の損害にはおよばないかあるいは右和解の権利不存在確認条項は控訴人の予想しなかつた新損害が生じたときは失効する旨の解除条項付のものと解すべきである。もし仮に本訴請求の原因となつている控訴人の症状に基づく損害を右和解当時控訴人が予想していたとすれば、控訴人は錯誤によつて右和解を成立させたことになり、また信義則ないし衡平の原則からしても、本訴請求の損害は右和解の対象とならないというべきである。また仮に本訴請求の原因となつている控訴人の症状に基づく損害が右和解当時予想し得なかつたものであるか否かが問題となるとしても、大腿骨骨髄炎より化膿性関節炎を生ずることは専門家でない一般通常人には予想することができないところである。」と主張する。
控訴人の左大腿骨の慢性骨髄炎は左大腿骨化膿性骨髄炎が慢性骨髄炎に発展したものであることは上記のとおりであるところ、前記鑑定の結果によれば、骨折に起因する化膿性骨髄炎が長期にわたる慢性骨髄炎に発展する例がある等骨折に伴う骨髄炎の完治が困難であることは一般の認識であることが認められ、前記訴訟において控訴人が骨髄炎治療のため将来二〇年間に要する費用の賠償を求めたことは前記のとおりであるから、控訴人は骨髄炎の慢性化やその難治性を考え、控訴人の左大腿骨化膿性骨髄炎は未だ治癒せず、長期にわたる疾患であると主張し、これを前提として右のごとき請求をしたことが明らかである(そして前記和解前に右主張および請求を撤回した形跡は認められない。)。してみると、控訴人の左大腿骨化膿性骨髄炎が慢性骨髄炎に発展したことをもつて控訴人の当時全く予想考慮しなかつたものであり、従つて右発展に基づく損害に前記和解がおよばないとか右和解の権利不存在確認条項が右損害が生じたときは失効する旨の解除条件付のものであるとかいうことはできない。控訴人が右和解において控訴人の左大腿骨の化膿性骨髄炎が未だ治癒せず、長期にわたる疾患である旨の主張に結局自信を欠き、譲歩として右主張を前提とする損害賠償請求を放棄したものであつたとしても、控訴人の右化膿性骨髄炎が慢性骨髄炎に発展し右放棄については控訴人に判断の誤り(事実と相違)があつた(この意味で右発展は右和解にあたり控訴人の予期したところとは異るものであつたとか控訴人の右化膿性骨髄炎の将来について控訴人に錯誤があつたとかいえないことはないのであるが。)からといつて、右発展に基づく損害をもつて右和解の対象外ということができないことはいうまでもない(なお付言すれば、右錯誤は争いの対象たる事項に関するものであるから、右和解の効力に影響をおよぼすものではない。)。また信義則ないし衡平の原則上控訴人の右化膿性骨髄炎が慢性骨髄炎に発展したことに基づく損害をもつて右和解の対象外となすべき理由もこれを見い出し難いといわねばならない。
また控訴人が右の左膝関節の化膿性関節炎が発症するにいたるべきことまでこれを具体的に予想考慮していたことはこれを認むべき証拠はないけれども、控訴人の左大腿骨化膿性骨髄炎が慢性骨髄炎に発展したことをもつて控訴人の全く予想考慮しなかつたものということができないことは前記のとおりであり、また控訴人の左膝関節の化膿性関筋炎は前記のとおり慢性骨髄炎に起因し、その罹患部に隣接する関節に化膿性炎症を発症させたものであるから、慢性骨髄炎に付随しその不可分的な拡大というべく、従つて控訴人が左膝関節の化膿性関節炎の発症を具体的に予想考慮していなかつたからといつて、直ちに右化膿性関節炎の発症に基づく損害に前記和解がおよばないとか右和解の権利不存在確認条項が右損害が生じたときは失効する旨の解除条件のものであるとかいうことは相当でない。化膿性骨髄炎が慢性骨髄炎に発展した場合、付随的にその罹患部に近接する部位に影響をおよぼして該部位に化膿性の疾患を生じさせることがあり得ることは一般通常人においても考えることができることと解されるから、慢性骨髄炎に付随しその不可分的な拡大である控訴人の左膝関節の化膿性関節炎の発症は控訴人において全く予想することができず、従つて考えおよぶ余地のなんらなかつたものということはできないというべきであり、従つて右発症に基づく損害に前記和解はおよばないとか右和解の権利不存在確認条項が右損害が生じたときは失効する旨の解除条件付のものであるとかいうことはできないと解するのが相当である。
以上のとおりであるから、控訴人の上記主張はいずれも採用し難いといわねばならない。
四 してみると、控訴人の本訴請求は、その余の点について判断するまでもなく、理由がないから、これを棄却すべきである。
五 よつて原判決は相当であつて、本件控訴は理由がないから、民訴法三八四条一項によりこれを棄却すべく、訴訟費用の負担につき同法八九条九五条を適用して主文のとおり判決する。
(裁判官 岡松行雄 園田治雄 木村輝武)